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2025/04/24 EDIT CATEGORY: TRACKBACK URL 

仏教の3大行事とは

キリスト教にクリスマスやイースターがあるように
仏教にも「三仏忌」という3大行事がある。

これは
①釈迦の誕生
②釈迦が悟りを開いた日
③釈迦が入滅した日
のことを指している。

それぞれ
①花祭り(降誕祭、灌仏会)
②成道会
③涅槃会

① 花祭りは4月8日に行われ、誕生仏に甘茶をかけて祝うのはすでに紹介したとおり。
② 成道会は12月8日に行われ、禅宗では釈迦が悟りを開いたことにあやかって厳しい座禅修行が行われる。
③ 涅槃会は、釈迦が亡くなったとされる2月15日に行われ、講堂に涅槃図を掛けて行われる。

涅槃図とは、釈迦の臨終の姿を表現した絵画のことで、
北を頭にして横臥する釈迦が描かれている。
こうした行事がはじまったのは平安時代末期とされて日本固有の色彩が濃い。
とくに、私たちになじみ深いお盆や彼岸は、完全に日本独特の行事と考えていいだろう。

ちなみに、小乗仏教が主流になっている東南アジア地域では、
釈迦が生まれた日、悟りを開いた日、そして入滅した日の
すべてが4~5月の満月の日とされているから、
この日の前後にウェーサク祭が開催される。
 
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2012/02/27 EDIT CATEGORY:未選択 COMMENT:0 TRACKBACK URL 

仏教における天国と地獄とは

仏教の世界では、いわゆる天国のことを「極楽」と呼ぶ。

極楽は、私たちの住む場所から西方十万億土
(この世から十万憶の国を越えたところ)の彼方にある阿弥陀仏が住む国で、
苦しみは一つもなく、楽しいことばかりが満ち溢れているから極楽といわれるようになった。

極楽は、
金銀宝石でできた七重の柵、七重の網、七重の並木で覆われている。
砂金が敷き詰めらた七宝の池の水は甘く、どんな病気もたちどころに治る。
池のなかにはさまざまな蓮の花が咲き、いい匂いを漂わせている。
どこからともなく音楽が流れ、鳥は美しい声でさえずっている。
そして、阿弥陀仏が説法をしているという。

それに対して、地獄は、サンスクリットの「ナカラ」の訳語で、
その音をとって「奈落」ともいい、「奈落の底へ堕ちる」などとして使われる。

地獄は、世界の中心にそびえ立つ、標高56万キロメートルの
須弥山の地下にあり、そこには生前に罪を犯した人たちを
苦しめる執行人が棲んでいると伝えられる。

この執行人こそが鬼で、頭が牛で身体は人間との牛頭
頭が馬で身体は人間の馬頭の2種類がいる。

2012/02/20 EDIT CATEGORY:未選択 COMMENT:0 TRACKBACK URL 

悟りとはどんな境地をいうのか

悟りとは真理に目覚めることを指している。

仏教にとって、これこそが最も大切なことで、
「仏教との最終目標は悟りを開くこと」といってもいい。

悟りを開いたときに、はじめて釈迦の教えを理解することが
できるとされているからである。

僧侶たちは苦行をしながら悟りの道を模索しているが、
「般若心経」によると境地に達するためにやるべきことは八項目で、
これを「八正道」と呼んでいる。

① 正しいものの見方を身につけ、仏教の根本を知る

② 正しい考えをし、正しい意思決定をできるようにする

③ 無駄口や悪口、誹謗中傷をいっさい口にせず、正しい言葉遣いをする

④ 殺生や盗み、汚職、姦淫などを行わず、正しい生活をする

⑤ 規則正しい生活をして、身体と口、そして心を清く保つ

⑥ 不正をせず、正しい努力をして悟りの境地へ向かう

⑦ 心を正しく持ち、信念を持って生活をする

⑧ 心を静め、安定を保つことによって精神の統一を図る

2012/02/13 EDIT CATEGORY:未選択 COMMENT:0 TRACKBACK URL 

釈迦はどのようにして亡くなったのか

悟りを開いた釈迦は、それから45年の長きにわたって伝道活動を続けた
亡くなったのは80歳という。

釈迦は、弟子たちとともに生まれ故郷のカピラ王国へ向かっていた。
その途中、一行はバーバー村に立ち寄り、鍛冶職人のチュンダに食事に招かれた。
一行は喜んでチュンダの家の食卓へついたが、出されたのは、とても珍しいキノコである。

チュンダが釈迦の皿にキノコを盛っていると、
釈迦が「このキノコは弟子たちには与えないでください」と耳元でささやいた。

チュンダはそれにしたがい、釈迦だけが口にした
その夜、釈迦は激しい下痢と血便に襲われた
それでもなお一行は旅を続けたが、クシナガラの郊外まで
きたとき、釈迦は2本の沙羅の木のあいだに横たわり
弟子たちに見守られながら80歳の生涯を終えたのだった。

釈迦の末期の言葉は、
「自分自身を灯明とせよ」
「すべては移ろいやすい怠らず努めよ」
「出家者は私の葬儀に関わるな。葬式は在家者がするであろう」
などとされている。

釈迦の死因は、毒キノコによる中毒死と考えられている。
釈迦にキノコを差し上げたチュンダは厳しい立場に置かれ、
悩み苦しんだ挙句、自殺してしまう。

釈迦が死ぬと、その遺骸はクシナガラのマルラ族によって火葬に処され、
遺骨は8等分されて分け与えられた。

釈迦は、イエスやムハンマドと同じように、教義を文章として残していなかった

そのため、弟子のひとりの摩訶迦葉
500人の弟子たち(500羅漢)を集め、仏典をつくるように促した。

その中心的な役割を果たしたのは、最も長く釈迦のそばにいて
戒律に詳しかった優婆離だった。

仏典の中に「如是我聞(私はこのように聞いた)」という始まりの文章が多いのは、
「優婆離が聞いた」という意味だからである。

2012/02/06 EDIT CATEGORY:未選択 COMMENT:0 TRACKBACK URL 

釈迦はどうやって悟りを開いたか

愛馬にまたがり、召使とともに密かに屋敷を抜け出した釈迦は、
マガダ国で2人の高名な仙人から禅の修行を受ける。
だが、わずか数か月ですべてを学び取ってしまった

「ここには悟りがない」と知った釈迦は、
山にこもって断食などの苦行を6年にわたって続けた。

だが、それでも悟りを開くことはできなかった。
苦行しても悟りが開けないのを知った釈迦は、
それまで行動をともにしていた5人の修行者たちとも別れて
山を下り、ネーランジャラー川で沐浴をした。

すでに体力は限界で、力は尽きようとしていた。
そのとき、乳粥を持ったスジャータという名の少女が
そこを通りかかったのである。

彼女は釈迦の前にひざまずき、その乳粥を差し出した。
釈迦はその乳粥を食べながらスジャータの「琴の弦は締めすぎると
切れてしまうが、締め方が弱いと音が悪い。
琴の弦は適度に締めるのがいい」という歌を聴き、
やはり自分の苦行が間違っていたことを知った

乳粥で体力を回復した釈迦は、ガヤーというところにある
ヒッパラ樹の根本で瞑想に入った。

このとき、天の悪魔が釈迦の悟りを妨害しようと大軍を送ったが、
釈迦はことごとく打ち破り、悟りを得て、ついに仏陀(ブッダ=真理に目覚めた人)となった。

このとき、釈迦の年齢は35歳(30歳という説もある)だった。

その後、釈迦は先に別れた5人の修行僧たちに再会して教えを説いた。

最初は裏切り者として耳を貸さなかった5人だが、やがて彼らは
釈迦の教えに感動し、そのまま弟子になったといわれる。

ちなみに釈迦が悟りを開いたガヤーという土地は、
釈迦が仏陀になったことからブッダガヤーと呼ばれ、
ヒッパラ樹は菩提樹(悟りの樹)と名前をかえた。

ただし、釈迦が悟りを開いたとされる菩提樹は、私たちが近年目にする、
菩提樹(リンデンバウム)とは別の種類で、クワ科のインド菩提樹のことである。

2012/01/30 EDIT CATEGORY:未選択 COMMENT:0 TRACKBACK URL 

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