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- Newer : 悟りとはどんな境地をいうのか
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2025/04/24 EDIT CATEGORY: ▲ TRACKBACK URL
悟りを開いた釈迦は、それから45年の長きにわたって伝道活動を続けた。
亡くなったのは80歳という。
釈迦は、弟子たちとともに生まれ故郷のカピラ王国へ向かっていた。
その途中、一行はバーバー村に立ち寄り、鍛冶職人のチュンダに食事に招かれた。
一行は喜んでチュンダの家の食卓へついたが、出されたのは、とても珍しいキノコである。
チュンダが釈迦の皿にキノコを盛っていると、
釈迦が「このキノコは弟子たちには与えないでください」と耳元でささやいた。
チュンダはそれにしたがい、釈迦だけが口にした。
その夜、釈迦は激しい下痢と血便に襲われた。
それでもなお一行は旅を続けたが、クシナガラの郊外まで
きたとき、釈迦は2本の沙羅の木のあいだに横たわり
弟子たちに見守られながら80歳の生涯を終えたのだった。
釈迦の末期の言葉は、
「自分自身を灯明とせよ」
「すべては移ろいやすい怠らず努めよ」
「出家者は私の葬儀に関わるな。葬式は在家者がするであろう」
などとされている。
釈迦の死因は、毒キノコによる中毒死と考えられている。
釈迦にキノコを差し上げたチュンダは厳しい立場に置かれ、
悩み苦しんだ挙句、自殺してしまう。
釈迦が死ぬと、その遺骸はクシナガラのマルラ族によって火葬に処され、
遺骨は8等分されて分け与えられた。
釈迦は、イエスやムハンマドと同じように、教義を文章として残していなかった。
そのため、弟子のひとりの摩訶迦葉が
500人の弟子たち(500羅漢)を集め、仏典をつくるように促した。
その中心的な役割を果たしたのは、最も長く釈迦のそばにいて
戒律に詳しかった優婆離だった。
仏典の中に「如是我聞(私はこのように聞いた)」という始まりの文章が多いのは、
「優婆離が聞いた」という意味だからである。
2012/02/06 EDIT CATEGORY:未選択 COMMENT:0 ▲ TRACKBACK URL
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